靖国参拝に思うこと

配信日:2011年

毎年、お盆シーズンのウェブ・マガジンでは太平洋戦争やその時代について考えるようにしています。

首相の靖国参拝問題は今や夏の風物詩のようになっています。日本は今、未曾有の危機的状況にあると思いますが、今年も中国・韓国が騒ぎたて「公人としての参拝か、私人としての参拝か」というような話題が出るのでしょうか?

ちょうど韓国では今、反日感情が凄いようですから例年以上にあるかもしれません。

確かに中国や韓国が騒ぎ立てるのも理屈としてはわかります。特にA級戦犯の御霊(みたま)を日本国首相が参拝するのは不愉快なことなのでしょう。そしてそのような首相のもとで「日本は再び戦争を紛争解決の手段とするかもしれない」と感じるのかもしれません。しかし歴史を振り返ってみると次のような事実もあります。

『昭和26年10月23日。サンフランシスコ講和条約の調印を終えた吉田茂首相が靖国を公式参拝。合計で吉田茂は在職中に5回参拝。岸信介は2回、池田勇人は4回、佐藤栄作は11回、田中角栄は5回・・・。これらは今よりも戦争の記憶が生々しい太平洋戦争に近い時代にあった事実である。しかもその時、中国も韓国も反発することは一切なかった。』(戦争論2/小林よしのり著・幻冬舎)

何故、より近世になって中国や韓国が反発するようになったのか?人によって幾つかの見方があると思います。彼等の政治的な意図のみならず、国内でのイデオロギーの問題があることは間違いなく、これはこれで今後解明される歴史的なテーマかもしれません。

しかし私としては、国を守った先祖の霊に祈ることが政治的問題として見られることに違和感を覚えます。

そもそも「参拝(祈る)」という行為は独特の民俗性によるものではないかと思います。イスラム文化圏での拝礼は日本人のそれとはまるっきり違う形式のものです。キリスト教の祈り方も独特。私の息子と娘はカトリック系の幼稚園に行っていましたが「父と子と聖霊の御名においてアーメン」というのは、私としてはちょっとこそばゆいように感じました。

アメリカでは大統領の就任式でキリスト教の聖書に宣誓する行事を行いますが、あれはキリスト教的な民俗性を背景にしたもので、私たち日本人がとやかく言うようなことではありません。同様に、靖国参拝は政治的な意図がどうであれ、外国人からそれをとやかく言われる筋合いはないように思います。

もともと日本には先祖崇拝という考え方があります。これは日本古来の信仰理念です。「子孫は先祖を祀り、先祖の霊は子孫を守り続ける」という考え方。そのような考え方がベースにあればこそ、私たちはお盆であれ正月であれ、お墓掃除に行き、家にいれば神棚に手を合わせるのです。

私の伯父は満州で戦死しています。田舎には水野家の墓地以外に軍人墓地があり、この伯父はこちらの墓に入っています。水野家のお墓掃除と一緒に軍人墓地も掃除します。これは先祖崇拝そのものだと思います。国のために戦死した先祖の霊なら、尚更、手を合わせたくなるというものです。

多分、靖国に参拝する人たちも同じ感覚ではないかと思います。国のために殉死した人々の御霊(みたま)を祀る神社が作られた時、人々は自然に立派な先祖を拝む感情を持ち、その先祖からの加護を祈ったのではないかと思うのです。

だから首相が靖国参拝をすることを非難するのは、日本人の信仰観を非難しているのに近いのではないかと思います。個人差はあるでしょうけど、参拝とは民族のアイデンティティですらあるのではないでしょうか?

ようやく息子も中学生になり、やっと歴史の面白さに気づくようになりました。近々、遊就館(靖国神社に併設されている歴史資料館)を見学に行こうと思っています。遊就館についても歴史的な見解が一方的であるというような見方をする人もいますが、自分の国を考える非常に良い材料になることは間違いありません。

また7月に行なわれる御霊祭も考えさせられます。毎年、靖国に縁の深い文化人や著名人が提灯にコメントを入れて点灯します。今年はつのだ☆ひろさんの提灯に書かれた言葉が印象的でした。「近代の祖先の霊も祀れずに何を自分の誇るべき哉」これは靖国参拝すら当然のこととして出来ない政治家に向けた言葉でしょうか、あるいは私たち現代の日本人への警句でしょうか?いずれにせよその通りだと思います。

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