死について考える

配信日:2011年

今年もあと二ヶ月で終わろうとしています。
東日本大震災があったせいでしょう、私は死について考えることが多い一年でした。それだけではありません。最近ではスティーブ・ジョブズやカダフィ大佐の死も私にとっては考えるきっかけでした。

カダフィ大佐は人生の最後の最後で、良い仕事をしたと思っています。
「独裁者がどのような末路をたどるか」を、自らの死を持って世界に示したことこそ彼が生きた理由ではないでしょうか?

世界では彼の死を喜ぶ声が大半のようですが、リビヤの解放そのものを喜ぶ以上に、私たちは彼の「悲惨な死に様」から学び自らの教訓とすることのほうが大事だと感じています。人間は誰でも会社や家庭で独裁者になる可能性があるのです。

死というのは、多かれ少なかれ、それを知る人になんらかの影響を与えるようです。

私の祖母は91歳で他界しました。足を悪くして以来、2年間、寝たきりになり叔父がずっと面倒を見てくれました。私の両親も協力的に面倒を見ていました。

医者からは何度も「もうダメだろう。年齢も年齢だし、色々な合併症を引き起こしている」と言われてきました。しかしそのたびに持ちなおしてきました。

時々、田舎に帰ると必ず祖母に会いに行きました。
そのたびに祖母がかすれるような声で、必ず言っていたことがあります。「元気でやっとるかね?」「子供はどうやね?」祖母自身がこのような状態なのに、それでも私たちの心配をしてくれる姿にショックを受けました。

祖母の最期の苦しみは2ヶ月近く続きました。特に背中に激痛が走るようになりました。私達もずっと背中をさすっていましたが、痛みはなかなか取れないようでした。

「もう楽になってもいいよ」と私は思うようになりました。
もう十分に頑張ったじゃないか。もう楽になってもいい。もうこれ以上頑張らなくてもいいよ。しかしそんな状態が2ヶ月も続いたのです。

祖母は2010年11月24日に亡くなりました。
ちょうど、今月が命日に当たります。葬儀の席で、私は不思議と悲しい気分になりませんでした。むしろ「よく頑張ったね」と、誇らしい気分ですらありました。

祖母の死は私に「努力する姿」について考えさせました。人間は死の直前まで努力をする生き物であり、常に今よりも良くなることを目指すものなのだと思いました。

どんな死も「無駄死」「犬死」はないのですね。その死を知る人にとって何らかの影響を与える。

スティーブ・ジョブズの死は「人間は誰でも天才になれる」ことを考えさせられました。今、『スティーブ・ジョブズⅠ(ウォルター・アイザックソン著/講談社)』を読んでいます。この本を買ったのも、彼の死からもっと学んでみたいと思ったからでした。

東日本大震災での多くの人の死は「平穏であることの価値」について考えさせられました。まだまだ復興からは程遠い状態で、すでに冬が始まっています。3・11は過去の話ではなく、現在の話そのものです。

死が人生の一部である以上、私たち一人ひとりの人生も常にそれを知る誰かに影響を与えていると思います。死を考えることは「生きる」を考えることに通じます。

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